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2022年5月 8日 (日)

東京カトリック神学院の院長がどなたかご存じですか?

本日は、世界召命祈願日ですから、司祭養成の場である神学院について、少しお話しします。

日本の教会には、教区司祭を養成する神学院が二カ所に設けられています。

教区司祭養成の神学院は、福岡と東京にあり、九州と沖縄の5教区は福岡の神学院(福岡カトリック神学院)を、それ以外の大阪教会管区と東京教会管区の11教区は、東京の神学院(東京カトリック神学院)を運営しています。近年、東京の神学院では、基本的に修道会の司祭志願者も受け入れていますが、そういった修道会からの聴講生も含めて、毎年20人から30人ほどの神学生が在籍し、その中で東京教区からは、今年度は4名の神学生が在籍しています。

現時点での東京の神学院の養成は、予科(1年ないし2年)から始まって、哲学を2年と神学を4年。その後助祭に叙階されて半年以上を経てから司祭に叙階されることになっています。以前は神学の三年目終了時の神学四年目に助祭に叙階されていましたが、現在の司祭養成は2016年に教皇庁聖職者省が示した司祭養成基本綱要「司祭召命のたまもの」に基づいて、生涯をかけての養成プログラムへと根本的に変えられました。なおこの司祭養成基本綱要は邦訳が単行本として今年の3月に出版されています(上の写真)。またこれに基づいて、それぞれの国の司教団は、地域の事情に応じた個別の司祭養成の基本綱要を作成することになっています。

哲学や神学やそのほか様々な科目の先生は、各地から通って授業を担当してくださっていますが、神学生と一緒に神学院で生活をともにする養成担当者が不可欠です。修道会の神学院の場合は、それ自体が修道院共同体なので、当然神学生以外にも複数名の修道会員が居住しており、神学生の霊的養成に参加するのですが、教区の神学院は事情が異なるため、養成担当者をいずれかの教区から派遣しなければなりません。

現在、東京の神学院では、4名の司祭が神学生と寝起きをともにしています。その内訳は、東京教区、横浜教区、名古屋教区からそれぞれ1名の3人が養成担当、これにグァダルペ宣教会のマルコ神父様が霊的指導者として加わっています。そしてその中の誰か一人が、全体の院長とならなくてはなりません。

加えて東京カトリック神学院の院長は、教皇庁の福音宣教省長官が任命する役職です。昨年までは大阪教区の松浦信行神父様が院長に任命されていましたが、このたび任期が満了し大阪教区にお戻りになりました。東京カトリック神学院司教団の推薦に基づき、新たに今年度4月から、東京教区の稲川圭三神父様が神学院長として、福音宣教省長官タグレ枢機卿から任命をいただきました。東京カトリック神学院の院長は、稲川圭三神父様です。


過日、ローマからの書類や正式な任命書(もちろんラテン語で書かれています)が届き、教皇庁大使館で教皇大使が見守る中、稲川圭三神父様は定められた方式で、荘厳に信仰宣言を行い、誓約書に署名されました。わたしは稲川神父様の所属する東京教区を代表して同席させていただきました。(写真は大使館での誓約書への署名と信仰宣言)

稲川圭三神父様、院長就任おめでとうございます。教会にとって大切なお働きに、神様の豊かな祝福と導きがあるように、お祈りいたします。

また、復活節第四主日の世界召命祈願日にあたり、どうか、司祭・修道者の召命のためにお祈りください。また、機会があれば(ザビエル祭など)神学院を訪れ、養成の現場をご覧ください。さらに小教区に神学生が土日の司牧研修でお邪魔する際には、声をかけ、祈りを約束し、励ましてくださいますようにお願いいたします。道程は短くありません。最低でも七年半です。長い道のりを歩む神学生を孤独のうちにおかず、共同体の絆を持って支えてくださいますように。(写真下は、東京カトリック神学院正面入り口、そして聖堂前に立つザビエル像)

 

 

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2022年5月 7日 (土)

週刊大司教第七十五回:復活節第四主日

復活節第四主日です。復活節第四主日は、毎年朗読される福音から「善き牧者の主日」とも呼ばれ、世界召命祈願日と定められています。通常であれば、この主日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区内で養成を受けている教区や修道会の神学生、修道会の志願者などに参加を呼びかけ、教区の一粒会と一緒に、召命祈願ミサを行うのですが、残念ながら今年もまた、感染症の状況を勘案して、中止とさせていただきました。

どうかこの主日に、司祭、そして修道者の召命のためにお祈りくださるようにお願いします。

また同時に、召命を語ることは、キリスト者の召命、すなわち信徒の召命についても考えるときです。一人ひとりに呼びかけ、福音をそれぞれの場で、それぞれの方法であかしするようにと招いておられる主に、どのように応えていくか。黙想する日曜といたしましょう。

例年、教皇様はこの日にあわせてメッセージを発表されます。今年は発表が大幅に遅れ、つい2・3日前の発表となりました。そのため、中央協議会での翻訳は間に合いません(日本では連休中の発表でしたので)。今年のメッセージのテーマは「Called to build a Human Family(人類家族を造るために呼ばれて)」となっています。翻訳の発表までは今しばらくお待ちください。

メッセージで教皇様は、教会がいまともに歩んでいるシノドスの道に触れ、まずはじめに教会全体が福音宣教の主役となるように召されていると強調されます。すなわち、召命は特定の人、特に聖職者の召命だけを語るのではなく、それぞれの場でどのように福音を宣教する主役となるのかを考える、教会全体への召命であることを指摘されています。

その上で、教会全体が、分断された人類を再び一致させ神と和解させるというキリストの使命にともに与るように招かれていると強調されます。

もちろん司祭や修道者の召命が増えるようにと、その道を歩み出す勇気が呼ばれている人に与えられるようにとお祈りいただきたいのですが、同時にわたしたち一人ひとりが、また教会共同体が、神からの呼びかけに応え、与えられたタレントを共通善のために十分に生かすために、互いに何ができるのだろうか。教皇様の呼びかけに耳を傾け、この主日に、お祈りください。

なお教皇様はこの数日、様々な要因から歩くことや立っていることに困難を感じておられます。どうか教皇様の健康のためにも、お祈り下さい。

以下、本日午後6時に配信された週刊大司教第七十五回、復活節第四主日メッセージ原稿です。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第75回
2022年5月8日

復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。今日は特に、司祭・修道者の召命のために、お祈りをお願いいたします。

第二バチカン公会議の会期中、1964年4月11日のラジオメッセージで、教皇パウロ六世は、こう述べておられます。

「十分な数の司祭を確保するという問題は、すべての信者にすぐさま影響を与えます。それは、彼らがキリスト教社会の宗教的な未来をそのことに託しているためだけではありません。この問題は、小教区や教区の各共同体の信仰と愛の力を正確かつ如実に表す指標であると同時に、キリスト者の家庭の道徳的な健全性のしるしだからです。司祭職と奉献生活への召命が多く見られるところではどこでも、人々は福音を豊かに生きています」

すなわち召命の問題は、組織としての将来的存続の課題にとどまるのではなくて、福音が豊かに生きられているかどうかの指標でもあるというのです。これはわたしたちにとっては、厳しい指摘です。国内には修道会立も含めていくつもの神学院があり、司祭養成が行われてきました。さらに各修道会では国内外各所で志願者の養成が行われてきました。しかし近年、司祭や修道者を志願する信徒の数は減少傾向にあり、例えば東京教区でも、司祭を目指す神学生は、現時点では四名しかおりません。

一人の神学生が司祭になるまで養成するためには、最低でも7年が必要です。将来の教区組織維持の観点からも厳しいものがありますし、教皇パウロ六世の指摘されるように、それが福音が豊かに生きられているかの指標であるとするなら、まさしくその数字自体が厳しい指摘となっています。まずは司祭・修道者の召命のために祈りましょう。同時に、わたしたち教会共同体の責務として、さらに福音に生きる姿勢を追い求め、福音をあかしして参りましょう。

実際、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

召命の促進は、特別な人の固有の務めではなく、教会共同体全体の責務であります。

ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。わたしたちは常にわたしたちと共にいてくださり、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を聞き分けているでしょうか。それとも、もっと他の声に気を取られて、そちらへと足を向けているのでしょうか。それぞれに与えられた召命を理解し、その召命に忠実に生きるとき、わたしたちは羊飼いの声を聞き分ける羊となることができます。

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2022年4月30日 (土)

週刊大司教第七十四回:復活節第三主日

今年の復活節第三主日は、5月最初の日となりました。5月と言えば、聖母の月です。

 1965年、特に東西冷戦が深刻さを増し、ベトナムでの軍事的緊張は東西の代理戦争の様相を帯びていた時期に、世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇パウロ六世は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです」と教会が大切にしてきた聖母への祈りの重要性を指摘されました。その上で教皇は、「教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と述べています。(3)

主キリストのあがないの業の第1の協力者は、十字架の傍らに立ち、イエスの苦しみを共にされた聖母マリアです。聖母の人生は、主の思いをと心をあわせ、主とともに歩む人生です。それだからこそ、聖母の取り次ぎには力があります。この5月を聖母を通じて私たちが主イエスに達することが出来るように、その取り次ぎのうちに、あがない主への信仰を深めるときにしたいと思います。特に、感染症や戦争など、世界的規模でいのちが危機に直面するような事態に直面するいま、一日も早い終息と平安を求めて、聖母にわたしたちの祈りを委ね、その取り次ぎを祈ることは、教会の伝統です。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第74回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。(写真上はガリラヤ湖畔のペトロ首位権教会にある、主イエスによるペトロの選び。「わたしの羊の世話をしなさい」と銘板に刻まれています)

復活節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第74回
2022年5月1日

復活された主イエスをあかしする弟子たちの言葉と行いは、どれほど力強いものだったのでしょう。その影響力に恐れをなした大祭司たちは、ペトロをはじめ弟子たちを最高法院に引いていき尋問し、黙らせようと試みます。最後の晩餐の頃の弟子たちであれば、あっという間にその脅しに負けて、口を閉じたのかも知れません。しかし使徒言行録が記している弟子たちは、大きく変わっていました。激しくののしられ脅されても、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」最高法院を出て行ったと記されています。この大きな生き方の転換には、復活の主との出会いがありました。

イエスが捕らえられたあと、三度にわたってイエスを知らないと否んだペトロに対して、復活されたイエスは、同じく三度にわたって、「私を愛しているか」と尋ねたことを、ヨハネ福音は記しています。あの晩の苦い思い出を心に抱くペトロは、しかし三度「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。

よく知られていることですが、愛するという行為にイエスはアガペーを使います。それに対してペトロはフィリアを使って応えます。アガペーは命をかけて相手のために身をささげる愛であり、フィリアは友愛です。命をかけてわたしの愛に生きるのかというイエスの重ねての問いかけに、ペトロは友愛的な感情、すなわち自分を中心に据えた心持ちを持って応えます。しかしそれではイエスが弟子として従うものに求める生き方、つまり無私の愛には結びつきません。イエスは、自分を捨てて、自分の十字架を背負って従うことを求めていました。それを具体的に意味するアガペーの愛をペトロは理解できていません。そこでイエスは三度目に、ペトロが理解するフィリアの愛を使って、重ねて尋ねます。

ここでペトロは始めてイエスの願いを心に感じ、「主よあなたは何もかもご存じです」と応えています。やっと、愛する行動の中心はペトロ自身からイエスに移ります。ペトロはイエスに身を委ねることで、始めてイエスのように生きることが可能となりました。

イエスに従うものの人生の中心にあるのは、自分ではなくてイエスご自身です。イエスご自身に完全に身を委ねることができたとき、つまりわたしたちが自分の弱さを認めたときに、初めて私を通じて福音があかしされるのです。福音のあかしは、私が中心になっているときには実現しません。伝えるのは私の思いではなくて、私を生かしてくださる主ご自身です。

今年わたしたちはウクライナへのロシアの武力攻撃という事態に直面し、戦争の危機を肌で感じる中で、教皇様と一致して、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなきみこころに奉献しました。

聖母への奉献という行為は、本質的に聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。わたしたちは完全に聖なる方にわたしたちを「委ね」て、それでよしとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方がわたしたちを聖なるものとしてくださるように決意をするのです。つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、わたしたちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つと言うことではなくて、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。復活の主との出会いは、主との一致のうちに福音をあかしする行動へと、わたしたちを招いています。イエスを心に抱いて、一歩前進する信仰に生きましょう。

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2022年4月24日 (日)

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復活節第二主日は「神のいつくしみの主日」です。

この日は関口教会の10時のミサを司式いたしました。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている、聖ファウスティナの聖遺物)

東京教区のカリタス組織である「カリタス東京」は、昨年夏に設立を公示して以来、この「神のいつくしみの主日」に立ち上げることを目指して準備を進めてきました。組織としての「カリタス東京」は、本日付で立ち上げることになりましたが、当初予定していたCTICを核としての新しい組織体にするためには、今しばらく調整の時間が必要です。とはいえ、新しい組織はそれ以外の教区の社会活動も包括するので、調整がつくまで立ち上げを延期することもできません。したがって、本日付で「カリタス東京」は立ち上がります。

今後、調整がついた段階で、あらためて全体としてのカリタス東京のあり方などについては、お知らせいたします。

カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの教区における支部ではありません。確かにカリタスジャパンに対する教区の窓口を含みますが、教区のカリタス組織は、カリタスジャパンの業務の教区版ではありません。全く異なる組織体です。

どうしても「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体としての「カリタス(カリタスジャパンや国際カリタス)」を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。教皇フランシスコが、社会に対する様々な教会の活動を統括する部門として、「総合的人間開発促進の部署」を設立した由縁です。それは、個々の評議会、例えば正義と平和や難民移住者などの活動が、教皇庁にとって不要となったための統合ではなくて、単なるネットワーク化では現実の要求に応えることができないがために、全てを統合する部署を創設して、あらゆる視点から対応をしていくものです。バチカンでの同部署の創設時の会合の模様を、2017年4月5日の「司教の日記」に記していますので、ご一読いただければと思います。この時、教皇様は盛んに、パウロ六世の「諸国民の進歩(ポプロールム・プログレッシオ)」50周年を記念するときでしたので、同文書に記された「総合的人間開発」に触れて、教会の社会の課題に対する対応も総合的であるべきことを強調されていました。

東京教区のカリタス組織として設立された「カリタス東京」は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。既存のいくつかの組織を統合したりするため、今後さらに組織としての調整が必要になりますが、できる限り早い段階で、これまでの教区の諸活動をさらに深め、総合的な取り組みとして、「人間の尊厳」を守り高める組織となってまいります。

以下、本日午前10時からの、関口教会での主日ミサでの説教原稿です。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている聖ヨハネパウロ二世の聖遺物)

復活節第二主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月24日

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに信頼を持って近づき、それを黙想する日であります。同時にわたしたちは、神のいつくしみに身をゆだね、それによって今度は、自分自身が受けたいつくしみと愛を、隣人に分かちあうことを決意する日でもあります。

2005年4月2日に帰天された教皇ヨハネパウロ二世は、その翌日の神のいつくしみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

「悪と利己主義と恐れの力に負けて」、わたしたち人類がどれほど愚かな間違いを犯すのか、わたしたちはこの四旬節に目の当たりにしました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は、武力の行使によって多くのいのちを奪い去っただけでなく、数限りない人がいのちを守るために故郷を離れ難民となって周辺の国へ旅立たなくてはならなくなりました。その数は聖週間が始まる頃に、国連の発表では450万人を超えています。

わたし自身は1994年に、アフリカのルワンダで起こった虐殺事件の後に発生した難民の流出という事態に、カリタスジャパンの一員として現地で救援事業に取り組みました。そのとき、200万人を超える人が、いのちを守るために周辺国に流出し、歴史に残る規模だと言われていました。今回はその倍以上です。市民への虐殺とも言うべき暴虐行為の話も伝わってきます。まさしく今こそ、「ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる」神の愛しみ深い愛に包まれることが必要です。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています(3)」と記し、愛と、あわれみと、いつくしみは、切り離すことができないと主張されます。

その上で教皇は、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と指摘し、そのためにこそ互いに支え合う連帯が不可欠だと強調されました。

さらに教皇は、正義には愛が不可欠であると指摘して、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『いつくしみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(いつくしみ深い神14)

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

「平和があるように」と、復活された主は弟子たちに語りかけました。死をもたらす悪に、神の愛といつくしみが打ち勝つことを示された主は、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にともにあることを明確に宣言して、弟子たちの恐れを取り除きます。平和は、神の打ち立てられる秩序が実現している状態です。目に見えるリーダーであったイエスを失っておののく弟子たちに対して、神の秩序が彼らを常に支配しているからこそ、どこにいてもどのような状況でも、主は弟子たちとともにおられることを明確にされました。復活された主は、常に共にいてくださいます。わたしたちをその平和で包み込んでくださいます。

そして弟子たちを罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。

福音に記されたトマスと主との関係は、神のいつくしみは完全な存在であり常にわたしたちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛といつくしみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。この世界には、神の愛といつくしみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちを尊重して生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、わたしたちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。 

ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、「キリストとの一致は、キリストがご自分を与えるすべての人との一致でもあります(14)」と記しています。

その上で教皇は、「神への愛と隣人愛は、真の意味で一致します」と述べて、神の平和のうちに生きる者は、神の愛に包み込まれ、神と一致しようとするときに、同時に隣人愛の行動に向かうのだと記しています。従って、神の愛に具体的に生きる行為、つまりカリタスの行いは、イエスの言葉と行いに付き従うものにとって選択肢の一つではなく、義務でもあります。

「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。

本日、東京教区のカリタス組織として「カリタス東京」が設立されます。まだまだこれから中味を整えていかなくてはなりませんし、組織を整える調整が必要です。カリタス東京は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。神の愛といつくしみに、すべての人が包み込まれるように、社会の現実のあらゆる側面で、総合的に神の秩序の確立のために取り組んでいきます。教区内において、様々な側面から社会の課題に取り組んできた多くの方を、ネットワーク化し、互いに支え合うようにしたいとも考えています。どうか皆さん、神のいつくしみに勇気を持って身を委ね、受けた愛を多くの人に分かちあう道を歩みましょう。

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2022年4月23日 (土)

週刊大司教第七十三回:復活節第二主日

復活節第二主日です。

復活節第二主日は、神のいつくしみの主日とされています。主のいつくしみのメッセージはポーランドの聖ファウスティナ・コヴァルスカの受けた神のいつくしみに関するメッセージに基づくもので、聖ファウスティナは聖ヨハネパウロ二世教皇によって、2000年に列聖されています。なお聖人の聖遺物が、東京カテドラル聖マリア大聖堂の右手に、聖ヨハネパウロ二世教皇の聖遺物とともに、安置されています。聖堂右手のピエタ像の前です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第73回めのメッセージ原稿です。

復活節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第73回
2022年4月24日

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに信頼し、その愛に身をゆだね、わたしたち自身が受けたいつくしみと愛を、今度は隣人に分かちあうことを黙想する日であります。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。
「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と指摘される教皇は、人類の連帯を強調されました。いつくしみに基づいた行動は、神からの一方通行ではなく、それを受けるわたしたちの霊的変革が求められるごとく、相互に作用するものだとも語ります。教皇は「人間的なものに対する深い尊敬の念をもって、相互の兄弟性の精神を持って、人と人との間の相互関係を形成していくために、いつくしみは不可欠の要素となる」と指摘しています。正義には愛が不可欠であることを、愛といつくしみが介在して始めて相互の連帯が生まれることを強調するヨハネパウロ二世は、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『いつくしみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(いつくしみ深い神14)

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

復活された主は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて隠れ鍵をかけていた弟子たちのもとへおいでになります。主は復活によって、死をもたらす悪に、神の愛といつくしみが打ち勝つことを示され、その上で、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にあることを明確にして恐れを取り除きます。そして弟子たちを罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。

福音に記されたトマスと主との関係は、神のいつくしみは完全な存在であり常にわたしたちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛といつくしみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。この世界には、神の愛といつくしみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちを尊重して生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、わたしたちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。

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2022年4月17日 (日)

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皆様、主の復活おめでとうございます。

この数日は肌寒い雨模様が続きましたが、復活の主日の今日は、少しばかりの曇り空ですが晴れ上がり、暖かな春の日となりました。復活祭と言うこともあり大勢の信徒の方がミサに参加されました。聖マリア大聖堂は、堂内の人数制限をしているため、今日は正面扉を開放して、その外にも、ミサに与る人が互いの距離を取りながら、祈りをささげておられました。

今日のミサで、これから異動となる神父様方も多数おられると思います。関口教会でも、助任のホルヘ神父様が、来週から高幡教会で働かれることになります。ミサの最後に、関口教会からお祝いとホルヘ神父様の趣味でもある盆栽が贈られました。新しい任地で、新しい責務を負われるホルヘ神父様に、聖霊の導きを祈ります。

新しい主任司祭や助任司祭を迎える教会共同体にあっては、どうか司祭のためにお祈りください。新しい任地へ向かう司祭のため、そして新たに皆さんの共同体に赴任される司祭のため、どうか祈りをお願いします。わたしたちは、祈りの力を信じています。祈りを忘れたとき、人間の力に頼らざるを得なくなり、それが生み出す結果は神様の望まれる道とは異なる方向を向いてしまう可能性すらあります。

洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。これからキリストの身体の一部分として、共同体の大切なメンバーとして、ともに歩んで参りましょう。

以下、本日午前10時の、関口教会でのミサの説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月17日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

洗礼を受けられたことで、皆さんはキリストの身体を構成する一部分となりました。そのことを目に見える形で象徴するように、共同体の一員としても迎え入れられることになります。教会は共同体です。お一人お一人にそれぞれの人生の歩みがあることでしょうから、共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、信仰はパートタイムではなくてフルタイムであって、どこにいても常に、わたしたちキリスト者は霊的な絆で共同体に、そしてキリストの身体に結ばれていることを心に留めておくことだと思います。わたしたちから神に背を向けて離れていくことはいくらでもできますが、神は自分の身体の一部であるわたしたちを離しません。洗礼の恵みによって、さらには聖体と堅信の恵みによって、わたしたちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきをわたしたちが切り離すことはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で貢献をしていただくことを期待しています。

主の復活を祝うこの日は、わたしたちの信仰の中心にある喜びの日です。十字架の苦しみと死に打ち勝って、新たないのちへと復活されたイエスの勝利がなければ、今日の使徒言行録に記されているようなペトロの力強い宣言はなかったのです。ヨハネ福音に記されたペトロと、使徒言行録に記されたペトロは、同じ人物ですが、そこには大きな違いがあります。

あの晩、三度にわたってイエスを知らないと宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、主の復活を理解できません。ヨハネ福音には復活された主は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を見てもまだ理解できずにまだまだ困惑しているペトロや弟子たちの姿です。

しかしそのペトロは、使徒言行録で、力強くイエスについて宣言するペトロになりました。その異なるペトロの姿の間には、復活された主ご自身との出会いがあります。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」にこう記しておられます。
「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです(1)」

こう記した教皇は、繰り返し、わたしたちの信仰は、イエスとの個人的な出会いの体験によって生み出されると強調されました。イエスとの出会いは、ペトロやパウロがそうであったように、いのちを生きる希望を生み出します。

その上で教皇ベネディクト16世は、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。・・・希望を持つ人は、生き方が変わります(回勅「希望による救い」2)」とも指摘されています。

洗礼によってわたしたちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との個人的な出会いがあります。主との出会いはいのちを生きる希望を生み出します。その希望を心に受けた者は、それを力強くあかしする人生を歩み始めます。なぜならば、わたしたちが受けた福音は、単なる知識や情報ではなくて、何かを引き起こし、生活を変えるような力を持っているはずだからであります。

いま、たぶんわたしは、理想を述べています。現実はそう簡単にはいかないことを、わたしたちはこの四旬節の間、目の当たりにしてきました。そもそもこの二年間以上、感染症の影響で、希望のない暗闇の中を彷徨ってきました。彷徨い続けているにもかかわらず、多くの人が暴力的にいのちを奪われうるような戦争状態が発生し、世界中が希望を見失ってしまいました。喜びの季節であるはずなのに、心のどこかに不安が根を張っています。

教会は霊的な絆に結びあわされた共同体であるにもかかわらず、実際に集まることができない状態が長く続く中で、その状態にとどまり続けるのは容易なことではありません。どこからか甘い言葉がささやかれると、思わず飛びつきたくなる心持ちです。でも甘い言葉には、真理と平和はありません。

なんとわたしたちの信仰の弱いことかと、思い知らされ続ける二年間でありました。これまで当たり前だと思っていた、日曜日に教会へ行ってミサに与ること、それが難しくなったとき、初めてわたしたちは、集まること自体が喜びを生み出していたことを心で感じました。わたしたち、と言って、皆さんのことを私が判断することはできませんから、少なくともわたし自身は、人間の心の弱さを、この二年間、つくづく思い知らされています。そして他者のいのちを暴力的に奪ってでも、政治的野望を成し遂げようとする人間の心の醜さを目の当たりにして、ただただ、主よ助けてください、と叫び続けるしかありません。

このような時代に生きているからこそ、わたしたちは福音の基本に立ち返り、現実社会の中で教会がどうあるべきなのか、わたしたちがどのように生きるべきなのかを、思い起こしたいと思います。

わたしたちの信仰を支える教会共同体には、三つの本質的務めがあると、教皇ベネディクト16世は指摘されていました。

回勅「神は愛」に、「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせること(宣教とあかし)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことのできないものです(25)」と記されています。

教会は、福音をあかしする存在です。教会は祈りを深め神を礼拝する存在です。教会は愛の奉仕を行う存在です。どれかが大切なのではなくて、この三つの務めは互いを前提としているので、それぞれのが十分になされていなければなりません。

これに基づいて東京教区では、全体の方向性を示す「宣教司牧方針」を、定めています。宣教司牧方針の柱は三つあり、①宣教する共同体、②交わりの共同体、③すべてのいのちを大切にする共同体を育てていくことを目指しています。それによって先ほどの三つの本質的務めを十全に果たしていく共同体になりたいと思います。

三つの務めや三つの柱は、共同体の効率化だとか、そういったことを求めて定めてあるのではありません。それは、教会共同体が主ご自身との個人的な出会いを生み出す場となるためであり、主との出会いによる喜びに満たされている場となるためであり、社会に対してその喜びを宣言し希望を生み出すものとなるためであります。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。喜びと希望を生み出す、教会共同体でありましょう。

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2022年復活徹夜祭@東京カテドラル

主の復活おめでとうございます。

聖土曜日はいわゆる固有の典礼のない日です。静かに主の墓の前に佇みその受難と死を黙想する日です。そしてその日の夕刻、日が沈んで、聖書的には翌日が始まる土曜日の夜、主の復活の徹夜祭が行われます。その中心にあるのは、復活された主イエスが、暗闇に輝く希望の光であることを明確に示す光の祭儀、そして出エジプトの物語を中心とした旧約聖書の朗読を通じた救いの歴史の黙想、そして感謝の祭儀です。通常この復活徹夜祭が新しいいのちのよみがえりを祝うのですから、古い自分に死んでキリストのうちに新しい後を生きる洗礼がおこなれます。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、この晩、12名の方が洗礼を受け、3名の方が転会し、さらに10名が加わって堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

以下、復活徹夜祭の説教原稿です。なお、洗礼式で個人名が読み上げられることもあり、ビデオは添付いたしません

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月16日

皆さん、御復活、おめでとうございます。

わたしたちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、わたしたちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

この二年間、わたしたちは様々な危機に直面し、あたかも暗中模索を続けているようです。どこへどう進んでいったら良いか分からず、立ち止まってしまったとしても、時の流れはとどまることを知りませんから、わたしたちの人生はそれでも前進を続けています。

わたしたちの信仰の旅路も、とどまることなく前進を続けています。週の初めの日の明け方早く、墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたそのときで止まってしまったのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。そこに天使が出現し、イエスは生きていると告げます。途方に暮れた婦人たちに、天使は進むべき方向性を思い起こさせます。それはすでに与えられているのです。ガリラヤはイエスに従う人々がイエスと初めて出会った地です。信仰に生きるとはどういうことか、イエスが言葉と行いを持って教えた地です。それは単に過去の記憶として留めておくべきものではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える指針であります。

弟子たちも、十字架上での主の死という喪失に捕らわれ、途方に暮れて立ち止まっていたことを福音は記します。実際にイエスのからだがそこにはないことを目で見たペトロが、ただただ「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。ペトロは家に帰ったのであって、前に進もうとはしません。イエスご自身が現れるまで、前に進まないのです。主は立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。信仰は旅路です。闇雲に歩いているのではなく、主ご自身が示された方向性の指針に基づいて、歩みを続ける旅路です。

出エジプト記において、救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野を彷徨います。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進するように命じます。その旅路は過酷であり、あたかも彷徨っているようにしか見えませんが、しかし神の救いの計画、すなわち進むべき方向性の指針はすでに明確に示されていました。

わたしたちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。

とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときもしばしばでしょう。ですからわたしたちは、ともにこの道を歩みます。教会は共同体であり、わたしたちは信仰の旅路を、共同体としてともに歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

ちょうどいま教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容について分かち合い、理解を深めていただければと思います。このシノドスは、何か決議文を生み出すのではなく、互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続けることが目的です。

東京教区では、折しも宣教司牧方針を、教区の多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切出来ずにおりました。

今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、わたしたちは今の東京教区の現実の中で、神の民であるとはどういう意味があるのかを理解し深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

復活された主は、わたしたちの信仰の旅路に常に寄り添ってくださいます。ともに歩んでくださるのは主ご自身です。互いに支え合いともに歩む教会共同体を生み出していきましょう。

 

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2022年4月16日 (土)

2022年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

聖金曜日の主の受難の典礼です。

今年もまた、感染対策のため、通常通りの典礼ができていません。残念です。特に十字架の崇敬を、本来はお一人お一人にしていただきたいのですが、全員で一緒に崇敬という形にさせていただきました。来年こそは、元に戻すことができるのを願っています。また盛式共同祈願では、教区司教の定めとして、ウクライナの平和とミャンマーの平和のため、また感染症の終息のため、教区典礼委員会が準備した祈願文二つを使いました。

以下、聖金曜日主の受難の典礼の説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月15日

この日わたしたちは、愛する弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの受難という、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスの苦しみに心を馳せ、祈ります。今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心をあわせておられたことを、わたしたちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、教会に霊的生活の模範を示されています。

教皇パウロ六世は、「(聖母の)礼拝が人の生活を神に対する奉献とさせる点」において、また「私は主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」という言葉に生きたことによって、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるようにとの教訓であり、模範で」あると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

人生においてわたしたちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には大災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。この数年間、わたしたちは日本において、例えば東北の大震災のような大きな自然災害によって、人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。そして2020年、新型コロナウィルスによって、あらためて人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。

そして今度は戦争の危機に直面することになりました。今年の四旬節は、ロシアによるウクライナへの武力侵攻とともにある四旬節でした。核戦争の可能性さえ感じさせるこの事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。

第二次世界大戦という悲劇を経験した人類は、それを繰り返さないために、戦後、さまざまな国際的規約を定め、国際機関を設立し、平和を確立しようとしました。東西対立が深まり核戦争の危機が現実となった時代に、教皇ヨハネ23世は「地上の平和」を著し、「武力に頼るのではなく、理性の光によって、換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(62)」、国家間の諸課題を解決せよと呼びかけました。その上で、その解決を、いのちを危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできないと主張しました。

今回のウクライナでの事態にあたり、教会は教皇フランシスコの度重なる祈りの呼びかけに応え、平和のための祈りをささげてきました。しかしながら平和は自然現象ではありません。戦争が人間のしわざであるように、平和も人間の業によって生み出されなくてはなりません。平和は、教皇ヨハネ23世によれば、単に戦争のない状態ではなくて、神の秩序が完成している状態です。平和は神から恵みとしてもたらされるものではなくて、わたしたちがそのために力を尽くして確立するものであり、神は共通善に向けたわたしたちの行動を、聖霊を持って祝福し導いてくださいます。神の導きに応えて行動するのは、わたしたちです。

「地上の平和」にこう記されています。
「一人ひとりの中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植え付けなければ、人々の間に平和は成立しえません。(88)」

この事態にあたり、教皇フランシスコは、3月25日、全人類と、特にロシアとウクライナを、聖母の汚れなきみこころに奉献することを宣言し、全世界の教会に、教皇様と一致して祈りをささげるようにと招かれました。その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています

聖母への奉献という行為は、聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。教皇ヨハネパウロ二世は、1982年5月13日、ファティマでのミサにおいて、こう述べておられます。

「マリアにわたしたちを奉献するという意味は、わたしたちと全人類を聖なる方、つまり完全に聖なる方にささげるために、聖母の助けを求めるということです。それは、十字架のもとですべての人類への愛、全世界への愛に開かれたマリアの母なるみこころに助けを求め、世界を、人類一人ひとりを、人類全体を、そしてすべての国を完全に聖なる方にささげるためです」

わたしたちは完全に聖なる方にわたしたちを「委ね」て、それで終わりとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方がわたしたちを聖なるものとしてくださるようにと、行動を決意をするのです。つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、わたしたちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つのではなく、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。平和を求めて、全人類を聖母の汚れなきみこころに奉献したわたしたちの、具体的な行動が問われています。

いのちの与え主である神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。

苦しみの中でいのちの危機に直面していた主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこのときから、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い主イエスの苦しみに心をあわせ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

 

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2022年4月15日 (金)

2022年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

聖木曜日の主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行いました。例年、聖なる三日間の典礼は、関口教会と韓人教会の合同で行われていますので、昨晩のミサには韓人教会の主任である高神父様も参加、さらに昼間の聖香油ミサに引き続いて、大分教区の新しい司教である森山信三被選司教様も参加して祈りの時をともにしてくださいました。

感染対策中のため、残念ですが、今年も、洗足式を中止とし、さらにミサ後に御聖体を仮祭壇に運ぶ際も、会衆も共同司式司祭も、自席からお祈りしていただきました。来年こそは元に戻したい。そう思い、また願います。

なおビデオを見ていただく分かりますが、ミサでは第一奉献文を歌っています。あまり歌われることがありませんし、わたし自身が私の名前を呼ぶ(「わたしたちの司教○○」のところです)ところをどうしたのかも、一度ご覧いただければと思います。

以下、主の晩餐のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月14日

この2年間、感染症の状況のただ中にあって、わたしたちは孤立するのではなく互いに連帯して助け合うことの重要性を肌で感じ、同時に、いのちの危機に直面するとき、人がどれほど容易に利己的になり、様々なレベルで連帯が実現しない現実も目の当たりにしてきました。

その最たるものは、今年の四旬節を悲しみと恐れの影で覆い尽くしたウクライナにおける戦争です。そこには様々な政治的な理由があることでしょう。それを持って武力の行使を正当化しようとする立場もあることでしょう。しかし信仰に生きるわたしたちは、すでに感染症によって世界中のいのちが危機にさらされている中で、今こそ必要なのはともにいのちを生きるために連帯することであって、いのちを奪うことではないとあらためて、しかも愚直に主張したいと思います。

教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」で、現在の世界情勢を「散発的な第三次世界大戦」と指摘した上で、こう記しています。

「わたしたちを一つに結びつける展望の欠如に気づくならば、これは驚くことではありません。どの戦争でも、破壊されるのは『人類家族の召命に刻み込まれた兄弟関係そのもの』で、そのため『脅威にさらされた状況はことごとく、不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向け』るからです(26)」

いのちを守るために世界的な連帯が必要とされる今、世界はそれに逆行するかのように、互いの絆を断ち、利己的になり、互いに無関心になり、いのちをさらなる危機に追いやっています。

感染症対策がわたしたちを孤立させ、できる限り人間関係を希薄にさせ、教会に集まることすら困難にさせている中で、わたしたちはあらためて教会の共同体性を考えさせられています。教会は何を持って共同体なのでしょうか。2年前まで、日曜日に教会に集まることで、わたしたちは教会共同体であると思っていました。しかしそれが不可能となったとき、わたしたちを結びつけているのは一体何なのだろうかと、考える機会を与えられました。

私はこの感染症の状況の中で、教会活動に様々な対策を講じる中で、福音に記された、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの言葉を、わたしたちを結びつける絆のしるしとして掲げてきました。わたしたちは、どんな状況に置かれていても、主ご自身が、世の終わりまで共にいてくださると言われた、その約束に信頼し、主ご自身を通じて共同体の絆に結びあわされています。わたしたちは、仲良しクラブの会員ではありません。仲が良いから集まっているのではありません。わたしたちは、仲が良かろうと良くなかろうと、世の終わりまで共にいてくださる主がわたしたちとともにおられるから、この共同体に集められているのです。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」の冒頭で、主ご自身のこの約束の言葉に触れ、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだけれど、「しかし、聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と記しています。

その上で教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『いのちのパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、たえず新たにこのことを体験しなさいと言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

わたしたちイエスによって集められているものは、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結びあわされています。わたしたちは、御聖体の秘跡があるからこそ共同体であり、その絆のうちに一致しているのです。

主における一致へと招かれているわたしたちに、聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定にともなわせることによって、あとに残していく弟子たちに対する切々たる思いを秘跡のうちに刻み込まれました。このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が繰り返される度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会にいのちを与える聖体」5)。わたしたちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐に与った弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ思いを同じように受け継ぎます。

パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定の出来事を記す中で、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉に続けて、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と呼びかけています。この呼びかけは、いま聖体祭儀に与るわたしたち一人ひとりへの呼びかけです。

イエスは、裂かれたパンこそが、「私のからだである」と宣言します。ぶどうは踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

だからこそヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、互いに自分を主張するのではなく、相手を思いやり支え合い、そのために自らの身を犠牲とするところ、そこに主はおられます。

わたしたちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身を裂き、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。主の愛を自分のものとして具体的に生きるとき、そこに主はおられます。

教会は今、「ともに歩む教会のために--交わり、参加、そして宣教」というテーマを掲げて、ともにシノドスの道を歩んでいます。3月19日に世界中の司祭に向けて、聖職者省長官とシノドス事務局長が連名で書簡を出されました。そこに教会の新たな姿を求めるこの旅路について、こう呼びかけが記されています。

「わたしたちは、神の民全体とともに聖霊に耳を傾け、信仰を新たにし、兄弟姉妹と福音を分かち合うために新たな手段と言語を見出す必要があります。教皇フランシスコがわたしたちに提案しているシノドスの歩みは、まさにこのことを目的としています。つまり、相互に耳を傾け、アイデアやプロジェクトを共有しながら、教会の本当の顔を示すために、ともに歩み出すのです。その教会とは、主が住まい、友愛に満ちた関係性によって励まされる、扉の開け放たれた、もてなしのあふれる「家」です」

聖体の秘跡を制定された主イエスの切なる思いを心に刻み、聖体に現存される主に生かされて、その主を多くの人に告げしらせるために、主のおられる教会共同体となりましょう。

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2022年4月14日 (木)

2022年聖香油ミサ@東京カテドラル

今年は聖香油ミサを、例年通りに聖木曜日の午前中に執り行うことができました。残念ながら、感染対策の制限のため、信徒の方々にはご一緒いただけませんでしたが、オンラインで配信いたしました。

ミサの冒頭で、田町神学生の司祭助祭叙階候補者としての認定式と、熊坂、冨田神学生の、祭壇奉仕者選任式を行いました。なおミサには、教皇大使レオ・ボッカルディ大司教様と、先日大分の司教に任命されたばかりの森山信三被選司教様も参加してくださいました。

ミサ中には司祭の約束の更新、そして聖なる油の祝福を行いました。特に洗礼式、堅信、叙階式、献堂式などに使う聖香油の聖別は重要です。純粋なオリーブオイルに香料としてバルサムを混ぜ、象徴的に司式司教は口を近づけて息を吹きかけた後、祈りを唱えます。祈りの後半では同席するすべての司祭が右手を差し伸べて祈りに加わります。

また、配信には入っていませんが、ミサの終了後には、今年度の人事異動ですでに新しく来られた神父様や、東京を離れる方の紹介もありました。どうか皆さん、霊的に満たされ祝福された聖なる三日間をお過ごしになり、喜びのうちに復活祭を迎えられますように。

以下、聖香油ミサの説教原稿です。(なお当初用意した原稿の最後の部分を飛ばしましたので、配信担当者には事前に用意された字幕と異なることになり、通知していなかったので混乱を招いてしまいした。申し訳ありません。読み飛ばした部分は、ミサ冒頭の選任式で読み上げられた式文とほぼ同じ内容でした)

聖香油ミサ
2022年4月14日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

あらためて繰り返すまでもなく、わたしたちは2020年2月頃から、新型コロナ感染症に起因する困難な状況の中で、社会生活を営んでいます。もうすぐ収まるのではないかという期待を持ったところに、今度はまた変異株などが出現してみたり、普通の風邪と同じレベルだという声が聞こえたかと思うと、今度はまた、慎重さを失ってはならない、いのちは危機に直面しているという声を耳にすると言うことの繰り返しです。先が見通せないことほど、わたしたちに不安をかき立てることはありません。

あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ると共に、今も病床にある方々の回復を祈り、さらにはいのちを守るために最前線で働いておられる多くの医療関係者の方々の健康が守られるように祈り続けたいと思います。

感染症の困難のただ中で、教皇様は、しばしば世界的な連帯の必要性を強調されてきました。2020年9月2日の一般謁見では、この危機的状況から、以前より良い状態で抜け出すためには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠であると指摘されました。

しかしながらこの四旬節の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でありました。

世界的な感染症による困難といういのちの危機に直面する中で、戦争などしている暇はないだろうと思うのですが、政治の指導者たちの考えは、わたしたちの考えとは異なるようです。

ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は、これまで積み重ねてきた国際社会の努力を踏みにじる大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを顧みることなく事態は展開してきました。3月25日、教皇様が、全人類、特にロシアとウクライナを聖母の汚れなきみこころに奉献し、世界の多くの教会がそれに賛同して祈りをささげましたが、聖母の取り次ぎによって神の平和が確立する道が開かれるように、祈り続けたいと思います。

ちょうどこの困難な時期のただ中で、教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。わたしたちは今その道程を、全世界の教会をあげて、ともに歩もうとしています。ともに旅を続ける神の民にあって、わたしたち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となり得ます。

現代社会において、真摯に福音宣教に取り組もうとするなら、それは何らかのテクニックを考えることではなく、教会共同体を福音をあかしする共同体へと成長させるところからはじまらなくてはなりません。言葉と行いによるあかし以上に力強い福音宣教はありません。それは一人のカリスマのある人物の出現に頼っているのではなく、教会共同体が全体として、社会の中における福音のあかしの発信源とならなくてはなりません。

そういう現実の中で、福音をあかしする教会共同体を育てて行くためには、牧者である司祭の役割は重要です。ですから、今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、福音宣教の後継者の誕生につながるという大切な意味があります。

司祭へと養成されていくことは、決して共同体の中で序列が上がり偉くなっていくことではなく、反対に、出会う多くの人にいのちを生きる希望を見いだす道を示し、互いの絆を生み出し深めていくための模範を示していくことです。司祭養成の道を歩むことは、徐々に力強いものとなっていくのではなく、自分の弱さ、足りなさを自覚していく道です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださるおおくの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に謙遜な奉仕者であってください。

同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。今日、ここに集まっている司祭、修道者、信徒の方々は、ある意味東京教区全体を代表しておられます。司祭の養成は誰かの責任ではなく、教区共同体全体がそれに責任を負っていることを、どうぞ今一度思い起こしてください。教区や神学院の養成担当者だけの責任ではなく、わたしたち皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と歩みをともにしていただければと思います。

司祭への養成を受ける道を、一人で孤独のうちに歩むことはできません。歩みを進める中で、しばしば困難に直面します。人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするためには、多くの人の祈りによる支えが大切です。わたしたちの召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そしてこれからの新たな召命のために、お祈りを続けてください。

今回のシノドスの道の歩みを進めるにあたり、3月19日に、教皇庁シノドス事務局長マリオ・グレック枢機卿と、教皇庁聖職者省長官ユ・フンシク大司教は、世界中の司祭に向けて書簡を書かれました。シノドスを、ただでさえ忙しいのにまた加わった重荷と考えずに、「観想的な視線で皆さんが共同体を見つめ、そこにすでに根付いている参加と分かち合いの多くの事例を見出す」ようにと語りかけるこの書簡に、三つの勧めが記されています。

第一に「今回の旅が神のことばに耳を傾け、それを生きることに基礎を置くために、あらゆることを行うこと」。

第二に「わたしたちの旅が、互いに耳を傾け合い、受け入れ合うことによって特徴づけられるよう努力」すること。

第三に「今回の旅が、内省に向かうようにわたしたちを導くのではなく、すべての人に会いに出かけて行くようにわたしたちを刺激するよう気を」つけること。

この困難な状況の中にいるからこそ、わたしたちは、暗闇の中で福音の希望の光を高く掲げ、より多くの人が福音に出会い、命の希望を見出すような、教会共同体を育んで参りましょう。

 

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